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愛がなければ視えない。多分。
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---1/3---

 一夜にして邑(くに)が滅びた日――。
 龍神の加護があると信じられてきたこの地は、灰燼に帰した。

 ――どうして、もっと早く、
 ――どうして、助けに来て下さらなかったのですか。

 ――兄様。

 虚ろな目で僕を責めた春燕(チュンエン)は、己の首をかき切って死んだ。
 最早――。
 僕独り生き残ったところで、無意味だ。

 ――仇を。

 それは。
 仇を討てと云うことか。
 春燕が僕に遺した言葉が、それである。
 僕は、最早。
 勝手に死ぬことも赦されないのか。
 ――滑稽ではないか。
 王佐の家に生まれ、たとえ小邑と雖も一国の宰となるべきこの身が――単なる復讐者に堕するとは。
 焼き尽くされた城郭(まち)は、巨大な墓標にも似ている。

 故国の地に火を放ったのは、紛れも無く僕である。

   *

 十年の差が致命的に不利な条件をもたらしたと云って良い。
 〈大協約〉という絶対律が支配するこの地が、〈東帝〉〈西帝〉という二大帝国時代を迎えるまで、東大陸も西大陸も戦乱の最中にあった。
 ツァルラントと〈西帝〉国民が呼ぶ西大陸は、東西諸侯乱を鎮定したロッシナ家が帝として建った。今から百年ほど前のことである。
 海内(ハイネイ)と〈東帝〉国民が呼ぶ東大陸は、戦国の覇者たる夏(シア)氏が帝を称し地を平定した。今から九十年ほど前のことである。
 即ち――。
 〈西帝〉の方が〈東帝〉より僅かに即位が早かった。
 その僅かな差が――埋められぬ差となってしまった。
 〈東帝〉の国土の西部、及び〈東帝〉と〈西帝〉の狭間に在る〈皇国〉の北部が、〈西帝〉の手に堕ちた。
 十年、否。
 せめて五年早ければ――と思わずにおれない。
 時間の流れは常に残酷である。
 忘れたいものほど忘れさせてはくれず、忘れたくないものほど無慈悲に奪ってゆく。

「――ッ、ユエラン?」

 驚いて振り向いた美しい裸体は、成る程宝玉と誉めそやされるだけはあった。
「……ッ、なに、を」
 シャワーの雨に打たれて濡れそぼった肢体と金髪は、異様に艶かしい。
 軍服を纏い戦場を自在にかける姿からは想像もつかない。
 腕を掴んだ――抵抗はない。
「ユエ――ッ、ン」
 ――まるで普通の女だ。
 東方辺境領姫が聞いて呆れる。
 嫌がるでもなくキスを続けるユーリアを。
 乱暴に振り払った。
 副帝の娘が浴槽に倒れこむ。
 これほど弱弱しい戦姫を見て感ずるのは、驚きより憤りだった。

 ――わたしは、人を概観で判断しない。即ち、男女、家柄、宗族を理由に仕官を断らない。
 ――わたしは、君の才を愛しているのだ。

 彼女の周囲の人間全て、僕が幕僚に入ることに反対した。
 彼女だけが、僕を赦した。
 その彼女を。
 今、僕は、
「――ッ――う」
 低く呻いただけで、ユーリアの躰は簡単に雄を受け入れた。
 苦笑する。当然だ。
 何を期待していたのだ、僕は。
「処女のわけないよな。あんたの周りにはいくらでも男がいるんだ――」
 恥辱に耐えるというよりは――。
 快楽に流されまいと抵抗するような表情。
「ンうぅ――ッ」
 このまま犯し尽くして、殺して。
 一体、何が残るのだろう。
「春燕は、まだ十四だった」

 ――あんたらの兵に強姦されて、殺されたんだよ。

「母上も、姉上も、自刃していた。死体になっても穢されていた。あんたたちの国の兵士は頭がおかしいんじゃないのか。人とは思えない。――畜生より劣る」
 罵倒する声は、まるで他人のもののようだ。
「敵国の臣に犯されて悦がってるなんて、戎夷の娘には似合いじゃないか」
 嗤えてくる。
 その娘に仕えていたのは、紛れも無く僕だ。
「――わたしを」

 ――わたしを殺して、君の気が済むのか。

 だとすれば――。
 ユーリアが喘ぎ喘ぎ言葉を紡ぐ。
 聞き慣れた、王者の言を。
「そうならば……わたし……ッ、を」

 ――殺せば良い。

 噫。
 肺が、軋む。
 白磁の膚の上に。
 無様に鮮血が零れた。
 ――これは。
 僕の、血か。

 さようなら。
 僕の、最愛の、敵。

   *

「――戯れが過ぎるのではないか、東方辺境領姫」
 冷え冷えとした声が響く。
 声より更に冷徹な双眸が、此方を見下ろしていた。
「わたしは本気だ」
 最早生気のない男の躰が、人形のように宙吊りになった。
 その心臓を正確に貫いた槍。
 まるで兎でも仕留めたように、男の屍体を詰まらなそうに眺める蒼氷色の双眸。
「尚更悪い」
「……己の予想通りで満足か、カミンスキィ」
 〈西帝〉随一の槍の名手にして男爵大佐、アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィは、ユエランをぶら下げたまま口元を歪めた。
「殿下の独善は今に始まったことじゃない。能臣が口を揃えて諫止しようとまるで聞く耳を持たず、己の直感のみを信ずる――俺は、そんな生き方は嫌いじゃない」
「誉められたのか貶されたのか、わからんな」
「どちらでもない。強いて云えば、俺個人の好悪を述べただけだ」
 彼はこういう男だから、私の副官が務まっているのかもしれぬ。
「……丁重に弔ってやれ」
「そうだな」
 漸くユエランの屍を下ろすと、槍を引き抜いた。刺傷から溢れた血は思いの他少ない。
 ――否。
 普段見ている血の量が多過ぎるから、そう感じるだけだ。
「何せ、〈東帝〉西部の中でも有力な王国の生まれ、しかも宰相級の者を何人も輩出する貴門の出となれば――もし、〈東帝〉陛下の幕下にあれば、厄介な敵になっていただろうな」
「寿珠(ジュシュ)国は最後まで〈東帝〉に刃を向けていた。たとえ官途に就いたとしても、厚遇は望めなかったろう」
「〈東帝〉はそれほど偏狭な帝か?」
 カミンスキィの手がシャワーを止める。もう片方の手がバスタオルを寄越した。手際のいいことである。
「帝自身は知らない。滅多に姿を現さないことで有名だ。――風土であろうな」
「保守的ということか」
「歴史を重んじるということだろう。……十年前に受けた汚辱も雪ぐべしと考えるのだから。百年前の事実が容易に消えるとは思えん」
「百年! 俺の祖父様が生まれたくらいだな」
「“たった二代前”だ。ツァルラントとハイネイでは、時間の感覚が違い過ぎる」
 それを教えてくれたのは――。
「楽朗(ユエラン)もそう云っていたな」
 ――彼だ。
 物云わぬ屍。
 そう云えば――。
 〈西帝〉では死体はただの死体だが、〈東帝〉では死ねば魂と魄とに分かれるのだったか。
 魂は天に昇り。
 魄は地に残る。
 ――即ち。
 ユエランの魂は既に此処になく、私が今見ているのは魄の部分だけなのだ。
 否。
 矢張り、これは、ただの死体である。
 ユエランではなくなった、ただのモノだ。
「カミンスキィ」
 呼び止めて、云うほどのことではない。
 それでも、言葉は勝手に流れ出た。
「わたしは常に死者は最少になるよう努めている。それは、敵兵だろうと味方の兵だろうと、同じだ」
 理知的な双眸が私を見返していた。
 苛立ちも批難もない、酷く平坦な視線である。
「それは、俺も同じだ。戦場に立つ指揮官は、自軍の消耗を最小限にすべきだろう。そして、相手方の指揮官にそれを望むことは結果的に戦闘の質を高める場合が多い」
 戦わずに勝つことが、最上――。
「ユーリア、お前は間違っちゃいない。だが、正しいことが必ず望む結果をもたらすわけでもない。……最初から云ったはずだ。“傷付くのはお前だけだ”と」
 ――楽朗を参謀に?
 ――俺は構わん。だが、ひとつ云わせてくれ。

 ――楽朗はお前を殺すぞ。

 私を殺せなかった場合――ユエランが死ぬことは簡単に予想できた。それでも。
 私は。

 ――そして、お前を殺そうとする者を殺すのが、俺の役目だ。
 ――最後に傷付くのは、お前だけだ。楽朗ではない。

 わかっていた。
 そんなことは――。
「私は、莫迦だな」
「知ってるさ」
 カミンスキィが背を向けた。

 さようなら。
 私の、最愛の、希望。

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