愛がなければ視えない。多分。
---2/3---...びぃえる時空注意。
「では、以上を赤口港の都督殿へ回しておきます」
「ええ、頼んだわ」
「……姫様はもうお休みに?」
「そうよ、クラウス。夜更かしはお肌の大敵なのよ。あなたも夜は辛いでしょう?」
「ははは、姫様に年寄り呼ばわりされるとは光栄ですな」
では、と敬礼し、有能な参謀であるかつての守役と別れ――。
私は自室の扉を開いた。
ランプに一つずつ灯りを点し、闇を払う。今日は新月である。星明りだけでは心もとない。
何より――。
暗闇は、嫌いだ。
戦場での夜は苦にならない。夜営は暗くても人の息遣いがある。
こうして。
独りで自分の部屋に入ることが、一番怖い。
何もないことは――とても畏ろしい。
だから、灯りを点すのだ。
せめて何もないことを明白にする為に。何かいるのではないかという疑念を払拭する為に――。
居間を抜け、寝室に入る。
そのままベッドに倒れこむ前に――。
漸く、重大な異変に気付いた。
「……おい」
頭を抱えたくなるが、ランプを片手にしていてはそれも儘ならない。
「アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ!」
せっかくフルネームで呼んだというのに、私の声に応えたのはくぐもった呻き声。
――ランプをかざして見るまでもない。
「――ッ、なんだ――もっと、ゆっくりしてくればいいものを」
「そういうことは自分の部屋ですればよかろう。貴様はわたしのベッドを男臭くする趣味でもあるのか?」
ひとのベッドの上で素っ裸になっておきながら何ら悪びれた風もない我が副官は、此方を横目で眺めた後、ゆったりと身繕いを始めた。
「そんな趣味はない。それに、殿下のベッドは俺が駄目押しせずとも十分男臭い」
「云っておくが。貴様ほど男の出入りは激しくない。それと、一滴でも零していたらシーツを換えてから出て行けよ」
「生憎と、やっと脱がせ終わったところだ。一滴も出しちゃいねえよ」
「だったらさっさと去ね。わたしはこれから寝る」
へいへい、と軍隊にあるまじき軽い返答を寄越したカミンスキィ大佐は、ベッドの上を一瞥すると徐に立ち上がった。
そう云えば――。
相手の方が全く起き上がってこないのだが。
「おい」
「まだ何か?」
「抱くつもりだったのなら、最後まで介抱してやるのが甲斐性と云うものだろう?」
カミンスキィは物凄く厭そうな顔をして、私の横を通り過ぎた。
「悪いが俺は生粋の甲斐性なしだ」
――たしかにその通りである。
じゃあな、と残して、カミンスキィは命令には忠実にさっさと退室した。
そして――。
東方辺境領姫たるこの私が色惚けの部下の後始末をする羽目になる。上官に対する嫌がらせとしか思えない。
うんざりした気分でベッドの上を覗き込む。
蹲るようにして伏臥する青年。
――彼は。
*
彼は――。
平素通り横柄な調子で俺の肩を叩いた。
「ヴィスナー」
「何でありましょうか――聯隊長殿」
――厭な人に捕まってしまった。
完璧に端整な容貌の持ち主は、俺の不安を煽るように冷笑を浮かべた。
「東方辺境領姫殿下がお呼びだ」
「は――」
――今。
彼は、何と。
「小官を……でありますか?」
「東方辺境領軍総司令官として、騎兵聯隊長と副長を呼んだということだろう。殿下がプライベートで我々を呼ぶことは皆無だ」
――何だ。
カミンスキィ自身も呼ばれているのなら、何も不自然なことはない。要は、俺は付き人役と云うことだろう。
「了解しました」
カミンスキィは鷹揚に肯くと、さっさと踵を返した。
もう夜半を過ぎているので、人の気配はほとんど感じられない。兵隊は営所に戻っているだろうし、参謀の面々はどこか上の階の狭い部屋にすし詰めになって軍略を練っているに違いない。〈東帝〉の西北の一部しか版図に持たぬ東方辺境領姫が〈東帝〉を手中に治めるのはまだ先であると云っていい。
幾度か廊下を曲がり、階段を上った先――。
ごく普通の部屋に見えるそこが、東方辺境領姫の私室らしかった。
カミンスキィが短くノックする。返事は聞こえなかったが、聯隊長は間髪いれずに扉を開いた。
俺も、仕方なく続く。
室内は――。
酷く、暗い。
否。
むしろ、
誰も居ない――。
「これほど簡単に引っ掛かるとは、実に詰まらん。俺の命令は聞けなくとも、あの女の命令なら素直に聞くということか」
苦々しい声。
これは。
「聯隊長――あんた」
噂には聞いていた。
この美貌の男爵大佐が恐ろしく漁色家であるということ。そして、今の状況を最悪だと断定できる材料は、
――俺の引き抜きに応じたということは、それなりの覚悟があるのだろうな?
――身も心も俺に預けてもらわねば、副長は任せられん。
あの言は。
矢張り、比喩ではなかったのだろう。
「まあ――あまりに従順過ぎるのも面白くない。そうやって噛み付いてくるぐらいで丁度良いな」
「あんたの趣味なんか聞いていない。いや、それより――こんな巫山戯たことに付き合っている義理はない」
背を向けた瞬間には。
振り切れる――と思っていたのだ。
カミンスキィの長い腕が伸び、俺は壁に背を押し付けられていた。
「巫山戯てなどいない。――俺は本気だよ、ヴィスナー」
甘い声が耳朶に注がれる。
僅かに含まれた笑いが癇に障る。
揶揄っていることが明白である。
「莫迦に、ッ――」
余りに唐突なキスだった為に、反応が遅れた。
更に悪いことに、僅かな隙を突かれて担ぎ上げられてしまった。こんな時に、〈東帝〉人と〈西帝〉人の伝統的体格差を否応なく突きつけられる。決して長身ではない我が家系が恨めしい。
「――ッ」
下ろされたのは――。
寝台の上。
最悪だ。
「ッ――く」
跳ね起きようとした俺を押さえつけると、カミンスキィは晴れやかな笑みを浮かべた。休憩中でもこんなに楽しそうに笑ったのを見たことがない。
「……ンの、野郎……」
「漸く素が出てきたな、ヴィスナー。矢張り俺が見込んだだけはある」
「俺は、あんたの女になる為に副長引き受けたわけじゃ」
「同じだよ、ヴィスナー。少なくとも俺は、同じだと思っている」
――な。
「ッ迦、野郎。それじゃあ何だよ。東方辺境領軍には、部下は上官と寝なきゃいけねえ軍律でもあるッてのか?」
カミンスキィは鼻で笑った。
「それはないな。だから、俺個人の見解だと云っている」
俺にとっては――。
「軍が全てだ。東方辺境領姫から下賜された兵馬だけが、俺の持ちうる全てだ」
俺は。
「俺はあんたのモノじゃない」
「それは軍の外の理論だ」
――この男は。
壊れている。
「――ッ」
途端に、恐怖が心を支配した。
「俺が東方辺境領軍大佐である限り、俺に所属する全ては俺のものだ。――俺のものをどうしようと、俺の勝手だろう」
衣服を荒々しく剥ぎ取られた。
いつも――俺は、この男の上っ面しか見ていなかったのか。
「――ッ、――やめ、ろ」
この男は。
――壊れている。
「アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ!」
その声は。
俺にとっては、一筋の光明である。
カミンスキィが舌打ちした。
「なんだ――もっと、ゆっくりしてくればいいものを」
靴音が近付いた。
「そういうことは自分の部屋ですればよかろう。貴様はわたしのベッドを男臭くする趣味でもあるのか?」
「そんな趣味はない。それに、殿下のベッドは俺が駄目押しせずとも十分男臭い」
「云っておくが。貴様ほど男の出入りは激しくない。それと、一滴でも零していたらシーツを換えてから出て行けよ」
「生憎と、やっと脱がせ終わったところだ。一滴も出しちゃいねえよ」
「だったらさっさと去ね。わたしはこれから寝る」
カミンスキィが去るのと入れ替わりに――。
靴音の主、ユーリア姫将軍が近付いたようだった。
「……君は」
ヴィスナー少佐か、と呟く声。
――無様だ。
いったい、どんな顔をして応えれば良い――?
スプリングが軋み、ユーリアが寝台に腰掛けたのが判った。
「申し訳ありません、殿下。このような、見苦しい有様を」
「構わぬ。君が謝ることではない。あれの悪癖には、わたしも手を焼いている」
君にも苦労をかける、と云って、ユーリア姫は細巻に火を点けた。
「君も吸うか?」
大して吸いたくもないのに肯いてしまった。ユーリアは器用に二本目を銜えて火を点けると、それを俺に寄越した。
「ありがとうございます」
漸く――。
起き上がれた。
「あ」
ほとんど全裸なのに今更気付いて慌てると、ユーリアは声を上げて笑った。
「誰も取って喰ったりしないよ」
「――いえ、その」
これは余りに無礼である。否、そもそもこの状況自体、即手打ちにされてもおかしくないほど不躾である。
「申し訳ありません」
「だから君が謝る必要はない。恥ずかしいのなら着れば良い。向こうを向いているから。まあ――わたしはどちらでも構わないが」
乱れた衣服を整えて、漸く心持も落ち着いた気がした。上等な細巻の煙を心ゆくまで肺腑に吸い込む。
「君はたしか、ヨウフーの出だったね?」
「ご存知なのですか――」
驚いた。
ユーリアは悪戯っぽく笑う。
「さすがに、後衛含めて全ての将帥を把握しているわけではないが、主だった者の為人くらいは頭に入っている。軍を預かる身としては最低限の配慮だろう」
「そう――ですね」
まあ君の場合は、と云って、ユーリアは紫煙を吐き出した。
「カミンスキィの奴が直接わたしに持ってきた人事だから、詳細に目を通していた。だから鮮明に記憶に残っている」
「……そうですか」
「ヨウフーと云えば、わたしの父の代に東方辺境領に加わった優秀な騎馬民族だ。君もその血を引いているようだね」
たしかに、游胡(ヨウフー)は〈東帝〉から蛮族と呼ばれてきた遊牧民である。〈西帝〉の東方辺境領軍に下り、東方辺境領として領地を安堵された游胡の長は、ヴィスナー辺境男爵を名乗ることを許された。“エド・ヴィスナー”という名を持つ俺も、ヴィスナー辺境男爵の傍系にあたる。
「バルクホルン殿には及びません」
ユーリアは声を上げて笑った。
「あれは訓練の鬼だからな。あの下にいれば嫌でも馬術が上達するさ」
「よく――ご存知ですね」
普段姿を見せぬ姫将軍の目がここまで行き届いているとは思わなかった。
「わたしの“耳”は優秀だからな」
――ならば。
カミンスキィのことも。
「知っていて、放っているのですか」
機嫌を損ねることは判っていたが、問わずにはいられなかった。
ユーリアは紫煙と共に長嘆息した。
「治ると思うかね、あれが」
「殿下の兵を率いるには、相応しくない男だ」
ふうん、と相槌を打って、ユーリアは細巻を灰皿に落とした。
「君にはそう見えるのか」
――だが。
「わたしにはそう見えない」
じゃあ逆に訊くが、と云って、ユーリアは二本目の細巻に火を点けた。
「兵を率いるのに、高潔な人格が必要なのか? 聖人君子でなければ、将帥になってはいけないのか?」
「それは」
――違う。
違うのだろう。
そういうことを云いたいわけではないのだ。俺は、ただ。
――俺のものをどうしようと、俺の勝手だろう。
あの男は、貴女の兵を己が所有物のように、
「わかっているさ」
まるで俺の胸中を見透かしたように、東方辺境領姫は苦笑した。
「あれを騎兵聯隊長にしたのはわたしなのだから、あれの言動の責任はわたしにある。あの莫迦を弁護するようで甚だ気は引けるが――」
――聞いてもらえるだろうか。
聞かざるを得まい。
俺は肯いた。
ユーリアは安堵したように瞑目した。
「カミンスキィ家は、〈西帝〉の没落貴族だ。あれの父は金策の上手い男だったが、若くして亡くなった。残されたのは、母と娘二人と赤子。稼ぎの目途は立たなかった」
子を三人も抱えては嫁ぎ先も見つかるまい、と云って、ユーリアは淡々と続けた。
「カミンスキィの母は――長じてからは姉二人もだが――売春婦の真似事をして糊口をしのいだ。貴族の子女ともあろうものが、嘆かわしい限りだろう? まあ、カミンスキィもそれを“生きる為に必要なこと”として割り切っていたようだがね。幼い頃は」
――長じてからは。
「カミンスキィ自身も売られたのだよ。さる貴人にね。その頃もまだ、母や姉と一緒に暮らす為には必要なことであると思って、健気に春を鬻いだのだそうだ。泣かせるだろう?」
淡白な口調からは、嘲弄も悲憤も聞き取れなかった。
「それから程なく、さる貴人が死んだ。カミンスキィは莫大な遺産を承継して、家に戻った。やっと家族で暮らせると――嬉しかったのだそうだ。それがね」
――どうしてあなたに指図されなけりゃならないの。
――けがらわしい。
――あなたの尻穴にそそがれた金になどふれたくありません。
待っていたのは、拒絶。
そこで、おそらく。
あの男は壊れてしまった。
「カミンスキィが軍に拘泥するのは、軍が男社会だからだ。女は裏切る、女は信じられない――わたしの副官になりたての頃は、よくそう云っていた」
「よく副官を続けさせましたね」
「根競べは得意だ」
それに、と云って、ユーリアはにやりと笑った。
「わたしの裸を見ても欲情しない男など、土下座して謝らせるだけでは足りぬ。一生こき使ってやると決めたのだよ」
――まったく。
この姫様は。
「ヴィスナー」
「はい?」
「彼を――」
――信じてやって欲しい。
それは。
東方辺境領姫としての命令ではなく。
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナという女の切なる願いに聞こえた。
「嫌いになるのは無理もない。ああいう男だ、あれは。だが――最後まで、信じてやって欲しいのだ。あれの味方になれるのは、おそらく君だけだ」
「……参ったな」
本当に――。
「ヴィスナー?」
そんなことを聞かされたら、
「嫌いになれなくなるじゃァ、ありませんか――」
ユーリアの双眸が見開かれた。
――噫。
なんて。
綺麗に笑うのだろう。
それは当に、王たるものの笑顔だった。
「ええ、頼んだわ」
「……姫様はもうお休みに?」
「そうよ、クラウス。夜更かしはお肌の大敵なのよ。あなたも夜は辛いでしょう?」
「ははは、姫様に年寄り呼ばわりされるとは光栄ですな」
では、と敬礼し、有能な参謀であるかつての守役と別れ――。
私は自室の扉を開いた。
ランプに一つずつ灯りを点し、闇を払う。今日は新月である。星明りだけでは心もとない。
何より――。
暗闇は、嫌いだ。
戦場での夜は苦にならない。夜営は暗くても人の息遣いがある。
こうして。
独りで自分の部屋に入ることが、一番怖い。
何もないことは――とても畏ろしい。
だから、灯りを点すのだ。
せめて何もないことを明白にする為に。何かいるのではないかという疑念を払拭する為に――。
居間を抜け、寝室に入る。
そのままベッドに倒れこむ前に――。
漸く、重大な異変に気付いた。
「……おい」
頭を抱えたくなるが、ランプを片手にしていてはそれも儘ならない。
「アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ!」
せっかくフルネームで呼んだというのに、私の声に応えたのはくぐもった呻き声。
――ランプをかざして見るまでもない。
「――ッ、なんだ――もっと、ゆっくりしてくればいいものを」
「そういうことは自分の部屋ですればよかろう。貴様はわたしのベッドを男臭くする趣味でもあるのか?」
ひとのベッドの上で素っ裸になっておきながら何ら悪びれた風もない我が副官は、此方を横目で眺めた後、ゆったりと身繕いを始めた。
「そんな趣味はない。それに、殿下のベッドは俺が駄目押しせずとも十分男臭い」
「云っておくが。貴様ほど男の出入りは激しくない。それと、一滴でも零していたらシーツを換えてから出て行けよ」
「生憎と、やっと脱がせ終わったところだ。一滴も出しちゃいねえよ」
「だったらさっさと去ね。わたしはこれから寝る」
へいへい、と軍隊にあるまじき軽い返答を寄越したカミンスキィ大佐は、ベッドの上を一瞥すると徐に立ち上がった。
そう云えば――。
相手の方が全く起き上がってこないのだが。
「おい」
「まだ何か?」
「抱くつもりだったのなら、最後まで介抱してやるのが甲斐性と云うものだろう?」
カミンスキィは物凄く厭そうな顔をして、私の横を通り過ぎた。
「悪いが俺は生粋の甲斐性なしだ」
――たしかにその通りである。
じゃあな、と残して、カミンスキィは命令には忠実にさっさと退室した。
そして――。
東方辺境領姫たるこの私が色惚けの部下の後始末をする羽目になる。上官に対する嫌がらせとしか思えない。
うんざりした気分でベッドの上を覗き込む。
蹲るようにして伏臥する青年。
――彼は。
*
彼は――。
平素通り横柄な調子で俺の肩を叩いた。
「ヴィスナー」
「何でありましょうか――聯隊長殿」
――厭な人に捕まってしまった。
完璧に端整な容貌の持ち主は、俺の不安を煽るように冷笑を浮かべた。
「東方辺境領姫殿下がお呼びだ」
「は――」
――今。
彼は、何と。
「小官を……でありますか?」
「東方辺境領軍総司令官として、騎兵聯隊長と副長を呼んだということだろう。殿下がプライベートで我々を呼ぶことは皆無だ」
――何だ。
カミンスキィ自身も呼ばれているのなら、何も不自然なことはない。要は、俺は付き人役と云うことだろう。
「了解しました」
カミンスキィは鷹揚に肯くと、さっさと踵を返した。
もう夜半を過ぎているので、人の気配はほとんど感じられない。兵隊は営所に戻っているだろうし、参謀の面々はどこか上の階の狭い部屋にすし詰めになって軍略を練っているに違いない。〈東帝〉の西北の一部しか版図に持たぬ東方辺境領姫が〈東帝〉を手中に治めるのはまだ先であると云っていい。
幾度か廊下を曲がり、階段を上った先――。
ごく普通の部屋に見えるそこが、東方辺境領姫の私室らしかった。
カミンスキィが短くノックする。返事は聞こえなかったが、聯隊長は間髪いれずに扉を開いた。
俺も、仕方なく続く。
室内は――。
酷く、暗い。
否。
むしろ、
誰も居ない――。
「これほど簡単に引っ掛かるとは、実に詰まらん。俺の命令は聞けなくとも、あの女の命令なら素直に聞くということか」
苦々しい声。
これは。
「聯隊長――あんた」
噂には聞いていた。
この美貌の男爵大佐が恐ろしく漁色家であるということ。そして、今の状況を最悪だと断定できる材料は、
――俺の引き抜きに応じたということは、それなりの覚悟があるのだろうな?
――身も心も俺に預けてもらわねば、副長は任せられん。
あの言は。
矢張り、比喩ではなかったのだろう。
「まあ――あまりに従順過ぎるのも面白くない。そうやって噛み付いてくるぐらいで丁度良いな」
「あんたの趣味なんか聞いていない。いや、それより――こんな巫山戯たことに付き合っている義理はない」
背を向けた瞬間には。
振り切れる――と思っていたのだ。
カミンスキィの長い腕が伸び、俺は壁に背を押し付けられていた。
「巫山戯てなどいない。――俺は本気だよ、ヴィスナー」
甘い声が耳朶に注がれる。
僅かに含まれた笑いが癇に障る。
揶揄っていることが明白である。
「莫迦に、ッ――」
余りに唐突なキスだった為に、反応が遅れた。
更に悪いことに、僅かな隙を突かれて担ぎ上げられてしまった。こんな時に、〈東帝〉人と〈西帝〉人の伝統的体格差を否応なく突きつけられる。決して長身ではない我が家系が恨めしい。
「――ッ」
下ろされたのは――。
寝台の上。
最悪だ。
「ッ――く」
跳ね起きようとした俺を押さえつけると、カミンスキィは晴れやかな笑みを浮かべた。休憩中でもこんなに楽しそうに笑ったのを見たことがない。
「……ンの、野郎……」
「漸く素が出てきたな、ヴィスナー。矢張り俺が見込んだだけはある」
「俺は、あんたの女になる為に副長引き受けたわけじゃ」
「同じだよ、ヴィスナー。少なくとも俺は、同じだと思っている」
――な。
「ッ迦、野郎。それじゃあ何だよ。東方辺境領軍には、部下は上官と寝なきゃいけねえ軍律でもあるッてのか?」
カミンスキィは鼻で笑った。
「それはないな。だから、俺個人の見解だと云っている」
俺にとっては――。
「軍が全てだ。東方辺境領姫から下賜された兵馬だけが、俺の持ちうる全てだ」
俺は。
「俺はあんたのモノじゃない」
「それは軍の外の理論だ」
――この男は。
壊れている。
「――ッ」
途端に、恐怖が心を支配した。
「俺が東方辺境領軍大佐である限り、俺に所属する全ては俺のものだ。――俺のものをどうしようと、俺の勝手だろう」
衣服を荒々しく剥ぎ取られた。
いつも――俺は、この男の上っ面しか見ていなかったのか。
「――ッ、――やめ、ろ」
この男は。
――壊れている。
「アンドレイ・バラノヴィッチ・ド・ルクサール・カミンスキィ!」
その声は。
俺にとっては、一筋の光明である。
カミンスキィが舌打ちした。
「なんだ――もっと、ゆっくりしてくればいいものを」
靴音が近付いた。
「そういうことは自分の部屋ですればよかろう。貴様はわたしのベッドを男臭くする趣味でもあるのか?」
「そんな趣味はない。それに、殿下のベッドは俺が駄目押しせずとも十分男臭い」
「云っておくが。貴様ほど男の出入りは激しくない。それと、一滴でも零していたらシーツを換えてから出て行けよ」
「生憎と、やっと脱がせ終わったところだ。一滴も出しちゃいねえよ」
「だったらさっさと去ね。わたしはこれから寝る」
カミンスキィが去るのと入れ替わりに――。
靴音の主、ユーリア姫将軍が近付いたようだった。
「……君は」
ヴィスナー少佐か、と呟く声。
――無様だ。
いったい、どんな顔をして応えれば良い――?
スプリングが軋み、ユーリアが寝台に腰掛けたのが判った。
「申し訳ありません、殿下。このような、見苦しい有様を」
「構わぬ。君が謝ることではない。あれの悪癖には、わたしも手を焼いている」
君にも苦労をかける、と云って、ユーリア姫は細巻に火を点けた。
「君も吸うか?」
大して吸いたくもないのに肯いてしまった。ユーリアは器用に二本目を銜えて火を点けると、それを俺に寄越した。
「ありがとうございます」
漸く――。
起き上がれた。
「あ」
ほとんど全裸なのに今更気付いて慌てると、ユーリアは声を上げて笑った。
「誰も取って喰ったりしないよ」
「――いえ、その」
これは余りに無礼である。否、そもそもこの状況自体、即手打ちにされてもおかしくないほど不躾である。
「申し訳ありません」
「だから君が謝る必要はない。恥ずかしいのなら着れば良い。向こうを向いているから。まあ――わたしはどちらでも構わないが」
乱れた衣服を整えて、漸く心持も落ち着いた気がした。上等な細巻の煙を心ゆくまで肺腑に吸い込む。
「君はたしか、ヨウフーの出だったね?」
「ご存知なのですか――」
驚いた。
ユーリアは悪戯っぽく笑う。
「さすがに、後衛含めて全ての将帥を把握しているわけではないが、主だった者の為人くらいは頭に入っている。軍を預かる身としては最低限の配慮だろう」
「そう――ですね」
まあ君の場合は、と云って、ユーリアは紫煙を吐き出した。
「カミンスキィの奴が直接わたしに持ってきた人事だから、詳細に目を通していた。だから鮮明に記憶に残っている」
「……そうですか」
「ヨウフーと云えば、わたしの父の代に東方辺境領に加わった優秀な騎馬民族だ。君もその血を引いているようだね」
たしかに、游胡(ヨウフー)は〈東帝〉から蛮族と呼ばれてきた遊牧民である。〈西帝〉の東方辺境領軍に下り、東方辺境領として領地を安堵された游胡の長は、ヴィスナー辺境男爵を名乗ることを許された。“エド・ヴィスナー”という名を持つ俺も、ヴィスナー辺境男爵の傍系にあたる。
「バルクホルン殿には及びません」
ユーリアは声を上げて笑った。
「あれは訓練の鬼だからな。あの下にいれば嫌でも馬術が上達するさ」
「よく――ご存知ですね」
普段姿を見せぬ姫将軍の目がここまで行き届いているとは思わなかった。
「わたしの“耳”は優秀だからな」
――ならば。
カミンスキィのことも。
「知っていて、放っているのですか」
機嫌を損ねることは判っていたが、問わずにはいられなかった。
ユーリアは紫煙と共に長嘆息した。
「治ると思うかね、あれが」
「殿下の兵を率いるには、相応しくない男だ」
ふうん、と相槌を打って、ユーリアは細巻を灰皿に落とした。
「君にはそう見えるのか」
――だが。
「わたしにはそう見えない」
じゃあ逆に訊くが、と云って、ユーリアは二本目の細巻に火を点けた。
「兵を率いるのに、高潔な人格が必要なのか? 聖人君子でなければ、将帥になってはいけないのか?」
「それは」
――違う。
違うのだろう。
そういうことを云いたいわけではないのだ。俺は、ただ。
――俺のものをどうしようと、俺の勝手だろう。
あの男は、貴女の兵を己が所有物のように、
「わかっているさ」
まるで俺の胸中を見透かしたように、東方辺境領姫は苦笑した。
「あれを騎兵聯隊長にしたのはわたしなのだから、あれの言動の責任はわたしにある。あの莫迦を弁護するようで甚だ気は引けるが――」
――聞いてもらえるだろうか。
聞かざるを得まい。
俺は肯いた。
ユーリアは安堵したように瞑目した。
「カミンスキィ家は、〈西帝〉の没落貴族だ。あれの父は金策の上手い男だったが、若くして亡くなった。残されたのは、母と娘二人と赤子。稼ぎの目途は立たなかった」
子を三人も抱えては嫁ぎ先も見つかるまい、と云って、ユーリアは淡々と続けた。
「カミンスキィの母は――長じてからは姉二人もだが――売春婦の真似事をして糊口をしのいだ。貴族の子女ともあろうものが、嘆かわしい限りだろう? まあ、カミンスキィもそれを“生きる為に必要なこと”として割り切っていたようだがね。幼い頃は」
――長じてからは。
「カミンスキィ自身も売られたのだよ。さる貴人にね。その頃もまだ、母や姉と一緒に暮らす為には必要なことであると思って、健気に春を鬻いだのだそうだ。泣かせるだろう?」
淡白な口調からは、嘲弄も悲憤も聞き取れなかった。
「それから程なく、さる貴人が死んだ。カミンスキィは莫大な遺産を承継して、家に戻った。やっと家族で暮らせると――嬉しかったのだそうだ。それがね」
――どうしてあなたに指図されなけりゃならないの。
――けがらわしい。
――あなたの尻穴にそそがれた金になどふれたくありません。
待っていたのは、拒絶。
そこで、おそらく。
あの男は壊れてしまった。
「カミンスキィが軍に拘泥するのは、軍が男社会だからだ。女は裏切る、女は信じられない――わたしの副官になりたての頃は、よくそう云っていた」
「よく副官を続けさせましたね」
「根競べは得意だ」
それに、と云って、ユーリアはにやりと笑った。
「わたしの裸を見ても欲情しない男など、土下座して謝らせるだけでは足りぬ。一生こき使ってやると決めたのだよ」
――まったく。
この姫様は。
「ヴィスナー」
「はい?」
「彼を――」
――信じてやって欲しい。
それは。
東方辺境領姫としての命令ではなく。
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナという女の切なる願いに聞こえた。
「嫌いになるのは無理もない。ああいう男だ、あれは。だが――最後まで、信じてやって欲しいのだ。あれの味方になれるのは、おそらく君だけだ」
「……参ったな」
本当に――。
「ヴィスナー?」
そんなことを聞かされたら、
「嫌いになれなくなるじゃァ、ありませんか――」
ユーリアの双眸が見開かれた。
――噫。
なんて。
綺麗に笑うのだろう。
それは当に、王たるものの笑顔だった。
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