愛がなければ視えない。多分。
---3/3---...つづかない!
「東方辺境領軍元帥、ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナ、只今戻りました」
東方辺境領姫と呼ばれる私が、唯一傅くべき相手。
壇上の玉座に在る少年帝が、柔らかく応えた。
「ご苦労でした。特に〈皇国〉剣虎兵の牽引は見事というよりない」
「お褒めに預かり恐縮ですわ、陛下。新城(シンジョウ)大尉は東部戦線において有益な働きをみせるでしょう。手放すには惜しい人材です」
「彼はたしか、〈皇国〉の旧家の出だったな。名は――」
「駒城(クシロ)、ですわ。手回しは充分にしておりますが」
「わたしの名が必要なときは、好きに使いなさい」
「御高慮痛み入ります」
たしか――。
今年十五になったばかりだ。この帝は、間違いなく名君の器である。
「それでは、残務がありますので――」
「ユーリア」
親しげに呼び止めた帝は、矢張りまだ少年の顔をしている。
「宮には、暫く留まるのだろう? 軍略の講義の続きを聞きたいのだが――」
「あなたが熱心な生徒で助かるわ、レオン。明後日以降の昼ならばいつでも平気よ」
レオンは少し首を傾げると、はにかんだように笑った。
「それじゃあ、ギュンターの外交論をサボって顔を出しに行くよ」
「真面目なんだか不真面目なんだか」
二人してひとしきり笑ってから。
私は玉座の間を後にした。
廊下に待機していたクラウスがすかさず歩み寄る。
「定時か?」
「はい、元帥。カミンスキィ大佐からです。『道士三名捕縛するも、天龍の気配なし。われ、哨戒を続ける。』以上です」
「剣牙虎の鼻は利かぬのかな?」
「故国の地とは勝手が違いましょうなあ。野兎を見つけるならまだしも、相手は天龍ですし」
「そうだな。あまり期待し過ぎてもがっかりするだけね」
ああ、それと、と云って、クラウスは下がり気味の目尻を更に下げた。
「あの二人は相性最悪ですな」
何故それを楽しそうに云うのだ、この男は。
「……カミンスキィと新城大尉か?」
「いや、実に。面白いほど連携が取れていないもので。姫様の差配は普段から変化球好みですが、今回は死球に近いのではないですかな」
「どちらも優秀な軍人だ。この程度の任務で仲違いされては困る」
「優秀は優秀かもしれませんが、どちらもわりと大人気ないですからなあ」
「一言多いわよ、クラウス」
まあ、否定は出来ない。
「あァ――大事なことを言い忘れるところでした」
何事かと身構えたわたしに向かって、クラウスはやけにしかつめらしい顔をしてみせた。
「閣下がお待ちです。いつもの場所で」
――彼が。
「後事はお任せ下さい」
「ありがとう、クラウス」
駆け出していた。
厩舎に繋がれていた愛馬に乗って。
心は、千里を奔る馬より速く――。
彼のもとへと辿り着いている。
――お帰り、ユーリア。
ただいま、と彼に応えたときが。
私が本当に帝都に帰ってきた瞬間なのだ。
*
私が生まれたのは〈東帝〉領内の蔡陽(ツァイヤン)と呼ばれる都市である。〈西帝〉東方辺境領より遥か東にある港湾都市である。
副帝の賤妾であった母は、出産の為、大事をとって里に帰された。そこを――〈東帝〉軍に襲われたのである。
疑えばきりの無いことではあるが、兎も角、身重の母は殺されずに済んだ。捕虜として〈東帝〉軍に囚われた後、蔡陽の大商人に売られた。そこで私を産んだのだそうだ。母は下女として――と云うか、愛妾のひとりとして厚遇された。
運命が変転するのは、私が十も過ぎた頃である。
副帝の使者という名目で、クラウス・フォン・メレンティンが現れた。
父の忠実な臣下は、私と母に帝の崩御を告げた。商人に対しては千金を積み、母と私を“買った”。
――あなたがたを連れ帰ることが、帝の最期の望みでした。
結局、生きて逢うことは叶わなかった。
母子を帝都まで導いたクラウスは、今度は新帝擁立に東奔西走した。無論、帝都の外で生まれ育った私が帝位に就けるわけもない。クラウス始め先帝の寵臣たちは、〈西帝〉本土から遥々渡ってきた“本領派”の副帝候補に対抗する為、先帝の孫の擁立を画策したのだ。
先帝には男子が居ない。帝位に相応しいとして選ばれたのは、生まれたばかりの赤子だった。
それが、現副帝レオンである。
レオンは、先帝の正室の娘カテリーナ――私の異母姉にあたる――の子である。血統としては申し分ない。
それに。
レオンの父は、現宰相――先帝の侍従長を務め、その娘を妻に持つ、東方辺境領では一二を争う権力者である。
「お帰り、ユーリア」
帝都に帰還した母と私が住んでいた家で、彼は待っていてくれる。いつ私が帰って来ても良いようにと、彼自身が常に手入れしているらしい。
「ただいま――ヴィル」
抱き締める。
土の匂いがする。
一国の宰相ともあろう者が――。
こうしていつも、私を待っていてくれる。
「君の出立のたびに、私は覚悟を決めるのに――」
――矢ッ張り、駄目だな。
「君がこうして無事に帰って来ることほど、嬉しいことはない」
彼の言葉は、魂の底に心地良く響き渡る。
玉座の傍らにあって群臣を束ねる豊かな声が、私ひとりに向かって放たれているという贅沢。
「わたしも」
――とても、嬉しい。
鈍色の双眸が細められる。
目尻に刻まれた皺が、過ぎた年月を思わせる。
彼に出逢ってから十年以上が経った。
片や一国の宰相――。
片や一国の将帥――。
東方辺境領の顔と云うべきふたりは。
十一年前、ここで出逢った。
*
最初に彼女を抱いたのは、もしかしたら憐憫を感じた所為かもしれない。
今でこそ気丈にして豪胆な姫将軍だが、当時の彼女は母を喪ったばかりの年端も行かぬ少女である。いくら剛毅な性情を持っていようと、孤独を乗り越えられるほど円熟していない。
リーリア様が――。
ユーリアの母の一件は知っている。メレンティンが密命を帯びて連れ帰ったという貴婦人は、長旅の疲労の所為か、伏せりがちになった。
程なくして、リーリア・ド・ヴェルナ卿が亡くなった。
遺されたユーリアは。
泣いてなどいなかった。
泣きたいだろうに――。
恥も外聞もなく泣き崩れたいだろうに。
彼女はきっと泣かないのだろうな、と漠然と思った。
だから。
激情にひとり抗う少女に対するいとおしさの源泉は、憐憫であるかもしれない。
――そんなことはどうでもよかった。
ユーリアの躰に触れたのは、それが初めてだった。
以来、彼女との関係は続いている。
親子ほど歳の離れた娘を愛人にしている、という事実だけ挙げれば、宰相のこの身にはいかにもありそうな話ではある。顕官が正妻のほかに若い愛妾を持つ例は数え上げれば切りがない。
だが、ユーリアは先帝の遺児である。
本来ならば、彼女はしかるべき家に嫁ぐ身である。たとえ母の身分が低くとも、先帝の子であることには違いない。引く手数多であるはずなのに、ユーリアはそれらを無視し続けていた。
――わたしは軍人になりたい。
それが、彼女の真情だった。
私にだけは、それを打ち明けてくれた。
――あなたがレオンを補佐し、わたしはあなたの剣になる。それが、東方辺境領の在り方だわ。
己の言葉を実現する為、ユーリアは実力で軍の頂点に登りつめた。
「ヴィルヘルム……?」
言葉を発することも忘れて、見入っていたらしい。
「また――すぐに出立するのか」
「……そうね。〈東帝〉がいつ仕掛けて来るかわからないから」
「長い戦になるな」
〈東帝〉は道士と呼ばれる特殊な術に長ける者を戦線に投入している。正攻法で打ち破ることは難しい。物量で攻めても損害が大き過ぎる。
道士対策としてユーリアが援軍を要請したのが、〈皇国〉の“猛獣使い”剣虎兵部隊である。
目には目を――の論理であろう。
「わたしたち東方辺境領の人間は、今更ツァルラントには帰れない。生きる場所を護る為の戦ですもの――どれだけ長くなろうと、必ず勝たなくては」
「辛い役目をさせるね」
「そんなことはない」
――わたしにしか出来ないことだもの。
「副帝家は東方辺境領とその民を護る為にある。わたしが戦うのは、当然のことだわ」
その双眸に迷いはない。
どれだけ歳を重ねようと、変わらぬ光輝。
「わたしは、東方辺境領姫ですもの」
東方辺境領に住む者は皆、敬愛を込めて彼女をそう呼んだ。
東方辺境領姫――。
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナは、嫣然と微笑した。
東方辺境領姫と呼ばれる私が、唯一傅くべき相手。
壇上の玉座に在る少年帝が、柔らかく応えた。
「ご苦労でした。特に〈皇国〉剣虎兵の牽引は見事というよりない」
「お褒めに預かり恐縮ですわ、陛下。新城(シンジョウ)大尉は東部戦線において有益な働きをみせるでしょう。手放すには惜しい人材です」
「彼はたしか、〈皇国〉の旧家の出だったな。名は――」
「駒城(クシロ)、ですわ。手回しは充分にしておりますが」
「わたしの名が必要なときは、好きに使いなさい」
「御高慮痛み入ります」
たしか――。
今年十五になったばかりだ。この帝は、間違いなく名君の器である。
「それでは、残務がありますので――」
「ユーリア」
親しげに呼び止めた帝は、矢張りまだ少年の顔をしている。
「宮には、暫く留まるのだろう? 軍略の講義の続きを聞きたいのだが――」
「あなたが熱心な生徒で助かるわ、レオン。明後日以降の昼ならばいつでも平気よ」
レオンは少し首を傾げると、はにかんだように笑った。
「それじゃあ、ギュンターの外交論をサボって顔を出しに行くよ」
「真面目なんだか不真面目なんだか」
二人してひとしきり笑ってから。
私は玉座の間を後にした。
廊下に待機していたクラウスがすかさず歩み寄る。
「定時か?」
「はい、元帥。カミンスキィ大佐からです。『道士三名捕縛するも、天龍の気配なし。われ、哨戒を続ける。』以上です」
「剣牙虎の鼻は利かぬのかな?」
「故国の地とは勝手が違いましょうなあ。野兎を見つけるならまだしも、相手は天龍ですし」
「そうだな。あまり期待し過ぎてもがっかりするだけね」
ああ、それと、と云って、クラウスは下がり気味の目尻を更に下げた。
「あの二人は相性最悪ですな」
何故それを楽しそうに云うのだ、この男は。
「……カミンスキィと新城大尉か?」
「いや、実に。面白いほど連携が取れていないもので。姫様の差配は普段から変化球好みですが、今回は死球に近いのではないですかな」
「どちらも優秀な軍人だ。この程度の任務で仲違いされては困る」
「優秀は優秀かもしれませんが、どちらもわりと大人気ないですからなあ」
「一言多いわよ、クラウス」
まあ、否定は出来ない。
「あァ――大事なことを言い忘れるところでした」
何事かと身構えたわたしに向かって、クラウスはやけにしかつめらしい顔をしてみせた。
「閣下がお待ちです。いつもの場所で」
――彼が。
「後事はお任せ下さい」
「ありがとう、クラウス」
駆け出していた。
厩舎に繋がれていた愛馬に乗って。
心は、千里を奔る馬より速く――。
彼のもとへと辿り着いている。
――お帰り、ユーリア。
ただいま、と彼に応えたときが。
私が本当に帝都に帰ってきた瞬間なのだ。
*
私が生まれたのは〈東帝〉領内の蔡陽(ツァイヤン)と呼ばれる都市である。〈西帝〉東方辺境領より遥か東にある港湾都市である。
副帝の賤妾であった母は、出産の為、大事をとって里に帰された。そこを――〈東帝〉軍に襲われたのである。
疑えばきりの無いことではあるが、兎も角、身重の母は殺されずに済んだ。捕虜として〈東帝〉軍に囚われた後、蔡陽の大商人に売られた。そこで私を産んだのだそうだ。母は下女として――と云うか、愛妾のひとりとして厚遇された。
運命が変転するのは、私が十も過ぎた頃である。
副帝の使者という名目で、クラウス・フォン・メレンティンが現れた。
父の忠実な臣下は、私と母に帝の崩御を告げた。商人に対しては千金を積み、母と私を“買った”。
――あなたがたを連れ帰ることが、帝の最期の望みでした。
結局、生きて逢うことは叶わなかった。
母子を帝都まで導いたクラウスは、今度は新帝擁立に東奔西走した。無論、帝都の外で生まれ育った私が帝位に就けるわけもない。クラウス始め先帝の寵臣たちは、〈西帝〉本土から遥々渡ってきた“本領派”の副帝候補に対抗する為、先帝の孫の擁立を画策したのだ。
先帝には男子が居ない。帝位に相応しいとして選ばれたのは、生まれたばかりの赤子だった。
それが、現副帝レオンである。
レオンは、先帝の正室の娘カテリーナ――私の異母姉にあたる――の子である。血統としては申し分ない。
それに。
レオンの父は、現宰相――先帝の侍従長を務め、その娘を妻に持つ、東方辺境領では一二を争う権力者である。
「お帰り、ユーリア」
帝都に帰還した母と私が住んでいた家で、彼は待っていてくれる。いつ私が帰って来ても良いようにと、彼自身が常に手入れしているらしい。
「ただいま――ヴィル」
抱き締める。
土の匂いがする。
一国の宰相ともあろう者が――。
こうしていつも、私を待っていてくれる。
「君の出立のたびに、私は覚悟を決めるのに――」
――矢ッ張り、駄目だな。
「君がこうして無事に帰って来ることほど、嬉しいことはない」
彼の言葉は、魂の底に心地良く響き渡る。
玉座の傍らにあって群臣を束ねる豊かな声が、私ひとりに向かって放たれているという贅沢。
「わたしも」
――とても、嬉しい。
鈍色の双眸が細められる。
目尻に刻まれた皺が、過ぎた年月を思わせる。
彼に出逢ってから十年以上が経った。
片や一国の宰相――。
片や一国の将帥――。
東方辺境領の顔と云うべきふたりは。
十一年前、ここで出逢った。
*
最初に彼女を抱いたのは、もしかしたら憐憫を感じた所為かもしれない。
今でこそ気丈にして豪胆な姫将軍だが、当時の彼女は母を喪ったばかりの年端も行かぬ少女である。いくら剛毅な性情を持っていようと、孤独を乗り越えられるほど円熟していない。
リーリア様が――。
ユーリアの母の一件は知っている。メレンティンが密命を帯びて連れ帰ったという貴婦人は、長旅の疲労の所為か、伏せりがちになった。
程なくして、リーリア・ド・ヴェルナ卿が亡くなった。
遺されたユーリアは。
泣いてなどいなかった。
泣きたいだろうに――。
恥も外聞もなく泣き崩れたいだろうに。
彼女はきっと泣かないのだろうな、と漠然と思った。
だから。
激情にひとり抗う少女に対するいとおしさの源泉は、憐憫であるかもしれない。
――そんなことはどうでもよかった。
ユーリアの躰に触れたのは、それが初めてだった。
以来、彼女との関係は続いている。
親子ほど歳の離れた娘を愛人にしている、という事実だけ挙げれば、宰相のこの身にはいかにもありそうな話ではある。顕官が正妻のほかに若い愛妾を持つ例は数え上げれば切りがない。
だが、ユーリアは先帝の遺児である。
本来ならば、彼女はしかるべき家に嫁ぐ身である。たとえ母の身分が低くとも、先帝の子であることには違いない。引く手数多であるはずなのに、ユーリアはそれらを無視し続けていた。
――わたしは軍人になりたい。
それが、彼女の真情だった。
私にだけは、それを打ち明けてくれた。
――あなたがレオンを補佐し、わたしはあなたの剣になる。それが、東方辺境領の在り方だわ。
己の言葉を実現する為、ユーリアは実力で軍の頂点に登りつめた。
「ヴィルヘルム……?」
言葉を発することも忘れて、見入っていたらしい。
「また――すぐに出立するのか」
「……そうね。〈東帝〉がいつ仕掛けて来るかわからないから」
「長い戦になるな」
〈東帝〉は道士と呼ばれる特殊な術に長ける者を戦線に投入している。正攻法で打ち破ることは難しい。物量で攻めても損害が大き過ぎる。
道士対策としてユーリアが援軍を要請したのが、〈皇国〉の“猛獣使い”剣虎兵部隊である。
目には目を――の論理であろう。
「わたしたち東方辺境領の人間は、今更ツァルラントには帰れない。生きる場所を護る為の戦ですもの――どれだけ長くなろうと、必ず勝たなくては」
「辛い役目をさせるね」
「そんなことはない」
――わたしにしか出来ないことだもの。
「副帝家は東方辺境領とその民を護る為にある。わたしが戦うのは、当然のことだわ」
その双眸に迷いはない。
どれだけ歳を重ねようと、変わらぬ光輝。
「わたしは、東方辺境領姫ですもの」
東方辺境領に住む者は皆、敬愛を込めて彼女をそう呼んだ。
東方辺境領姫――。
ユーリア・ド・ヴェルナ・ツァリツィナ・ロッシナは、嫣然と微笑した。
PR