柔らかな午後の日差しの中――。
彼女は、柔らかな微笑を浮かべて俺を見る。
本当に、幸福そうな。
本当に、無邪気な。
そんな微笑――。
俺は、それを受け止めきれず――ティーカップに視線を落とす。
「まさか……ほんとに、ロレンツォのやつと結婚するとはね」
くす、と陽光に溶けてしまいそうな小さい笑い声が響く。
軽やかな、心地良い音。
「驚いた?」
彼女の英語は――街で聞く英語とは全く別の言語に聞こえる。
俺の母語より柔らかく、懐かしさすら感じる響き。
何故だろう――とても。
とても、温かい。
「そりゃあ、驚いたさ。自分の弁護士と幼馴染の間で結婚の話が進んでたなんて――世の中ってのは広いようで狭いもんだな」
照れ隠しのように言葉を重ねる。心拍数が上がっているのが、自分でもわかる。
――背徳感。
いいしれぬ後ろめたさに、胸の奥が痛んだ。
「どうしたの、バーン?」
バーン――。
脳髄が蕩けそうになるのは、響きそのものの甘さか、彼女の声の周波数のせいか――麗らかな日の光の下で軽い眩暈すら覚える。
「……いや、なんでもないんだ。メアリ」
こちらに伸ばされかけた手が、ふっと落ちる。
――そうだ。これ以上は、もう。
「バーン……」
きっと、正気を保てない――。
「用事があるから、そろそろ失敬するよ。ロレンツォに、よろしく。――また、色々と頼むことがあるだろうからね」
慣れないウィンクなどしてみる。
彼女は困ったような顔をして、
「奇蹟って、あるのね」
「ん――?」
それから。
「また、あなたに、逢えた――」
頬を一瞬で伝い落ちた水滴。
――でも、それは。
きっと、俺の望むような想いの結実ではなくて。
――奇蹟なんて、あるわけないよ。
彼女が問い返す前に、踵を返す。
真っ黒に染まった胸の奥に、黒い雫がぽたりと落ちた。
*
「ベルナルドは――」
空になったジェラートの器をボーイが下げると、ジュリオはおずおずと切り出した。
「ん? なんだい」
いったい、誰がこのおとなしそうな青年を凄腕の暗殺者と見抜けるだろうか。少なくとも、俺はムリだ。
「どうして、CR:5に?」
質問は単刀直入だった。
「他人のことに興味を持つなんて、珍しいな」
「他人、じゃなくて……ファミーリア、でしょう?」
「……そうだな。その通りだ」
なるほど――この殺人マシーンにも、そういう線引きがあるわけか。アンジェレッタ様サマだ。実によく躾けてある。
「俺は、ボスに拾ってもらったんだ」
ジュリオは神妙にうなずく。
「俺は、デイバンの人間じゃない。俺の故郷では、イタリア系への風当たりが強くてね。それが嫌で――街を出た。まあ、コーサ・ノストラに憧れたってのもある」
「……ご両親、は?」
「ウチは普通の仕立て屋だからね。もっとも、生粋のイタリア系だからトスカニーニの恩恵には預かっていたけれど。俺がCR:5の幹部をやってることは、風の噂に聞いてるだろうさ」
実質は――家出だ。
あれは、いくつの頃だったろうか。多分、十五六だとは思うが――そのすぐ後、デイバンに着く前に、軽い窃盗でポリにパクられて刑務所に送られたのだったか。
――嫌なことを思い出してしまった。
「……すまないな、お前の両親は――」
「いいんです。俺には……姉さんが、いますから」
いつになく強い口調でジュリオが応える。
「俺にも、兄や姉がいたが――縁は薄かったな」
「そう……なん、ですか?」
「兄さんたちは皆ハーヴァードに行ったよ。姉さんは銀行屋に嫁いだけど――代議士夫人だな、今は。俺は末っ子でね」
「大丈夫、なんですか……?」
「何が?」
「ヤクザの幹部なんか、やっていて……」
俺はニヤリと返す。
「一応俺にも、株式会社社長って肩書きがあるからね。家族にはそれで通してる。会社の中身がなんなのかは、見て見ぬふりだとは思うけどね」
それなりに迷惑をかけていると思うが――。
これが、俺の選んだ道だ。エクスキューズする気はない。
「……すごい、です」
「ん――そうか? 俺にはジュリオの方がよっぽどスゴいと思えるけど」
ジュリオははにかんだように笑う。
「俺は……ソルダート、です。人を殺すのが、人より少し……上手な、だけです」
「それでも充分スゴいって。俺は荒事には向いてないからな。ルキーノやイヴァンなんかを見てると――鉄火場に立てないのが、非常に心苦しいよ」
「ベルナルドが死んだら、困ります。……あなたの代わりは、いません、から」
さらっと嬉しいことを言ってくれる。
初対面では――まるで人形みたいだった少年が、ここまでCR:5に馴染んでくれうとは。GDとの抗争は予想外の果実をもたらしてくれたのかもしれない。
「それはお前も同じだよ、ジュリオ。俺が今美味いカッフェを飲めるのは、お前のおかげでもある」
ふと――。
ホテルの回転扉をくぐり、こちらに無造作に近寄ってくる長身の影。ラウンジの奥の席を占拠した俺たちのところまで一直線に進んできているのだから、堅気のはずはない。
その男は――。
ジュリオの側にうやうやしく跪いた。
「若、そろそろお屋敷に戻られませんと――アンジェレッタお嬢様にお叱りをうけます」
「久し振りだな、セバスティアーニ。アンジェレッタなら、ルキーノと密談中だよ」
す、と優雅な動作で立ち上がるボンドーネ家執事長。
セバスティアーニ――セバスチャンとは、通称だ。本名はリ・ホンファンという生粋のチャイニーズ。イタリア系よりイタリア人らしい小粋な装いの執事は、俺に向かって首を垂れた。
「お久し振りです、ドン・オルトラーニ。アンジェレッタお嬢様は、こちらですか?」
「そろそろ戻って来ると思う。ジュリオのお迎えかい?」
「ええ。突然ホテルに寄ると仰られたもので――」
「ご苦労様」
セバスチャンが毒気のない笑みを返す。俺より年上だったはずだが、アジア系の童顔のせいかジュリオと同じくらいに見える。
「――ッ、若」
執事は優雅なターンを決めると、懐からハンカチを取り出した。
「む……?」
「また、こんなに汚して――」
ごしごしと口元を拭かれる様は、とても凄腕の暗殺者には以下略。
「あ、マフラーにもこぼれてますね。……帰ってクリーニングに出しますからね」
「……むう……」
執事――というか。
保護者?
「申し訳ありません、ドン・オルトラーニ。お見苦しいところを……」
「いや、構わないよ」
というか。
「ジュリオが食べ物こぼすなんて、珍しくないか?」
セバスチャンが明後日の方を向く。
「本来、若のテーブルマナーは完璧なんですが……少しでも気が緩んでると、未就学児童のような有様でして。……お屋敷内ではいつもこうです」
「? ……俺、ヘンですか……?」
今度はスラックスの膝のあたりを拭かれながら、ジュリオがかくんと首を傾げた。
「いや。全然」
変――というか、実に微笑ましい。
そんなのどかな一幕を遮るようにして――。
神妙な面持ちのルキーノと鉄面皮のアンジェレッタが無言で戻って来た。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
「ご苦労、セバス。それでは先に失礼するわ」
ジュリオと執事を引き連れて、去ろうとするアンジェレッタに――。
ルキーノが、声を掛けた。
「アンジェレッタ。その――」
「引き続き部下に探索させるわ。一応、ボンドーネの私兵も被害にあっているから。それと」
人形めいた顔には不釣合いな、獰猛な笑みが閃く。
「あなたより先に殺しても、文句は言わないでね」
珍しくルキーノが閉口した。
黒服三人をホテル玄関まで見送ろうと、席を立ったところで。
何か――。
非常に小さなものが視界の端を掠め。
非常に見慣れたアッシュブロンドが目の前を過ぎった。
「――ん?」
俺が呼び止める前に。
やたら高そうなスーツを着崩したアッシュブロンドが、公衆の面前で罵詈雑言を吐き散らした。
「だあああぁぁぁぁぁッ! てめー、わざとやってッだろ!! 今すぐひん剥いて犯すぞクソガキャァっ!」
「きゃー♪ 助けてー」
ホールを一直線に駆け抜け、玄関の手前でスーツが小動物に追いついた。背後から両腕を回して抱きかかえると、捕獲完了とばかりにエレベータの方に戻って行く。
「……イヴァン?」
俺の声は――。
彼にとって、どうやら致命的だったらしい。
小動物をぶら下げたまま、スーツがぎこちない動作で振り返る。
「……っな、なんで、てめーら……」
イヴァンにぶら下げられたた小動物――いや、仕立てのいいワンピースを着た少女は、俺たちを順々に視界に収めた。視線に妙に威圧感があるのは、彼女が幹部筆頭の孫娘だからなのか――。
「お――イヴァンか。何してるんだ、お前? まさか、またカヴァッリ爺さんの付き人から修行し直しか?」
ルキーノがにやにやと頬を緩める。こいつはまた余計なことを。
「う、う、う、うるせえええぇぇっ! 見るな、見るんじゃねえッ! 俺を憐憫の眼差しで見るなああァァァ!」
「うるさいぞ、イヴァン。公衆の面前で騒ぐな。迷惑だ」
「アーア、オコラレター」
「ってめ、誰のせいだと思ってんだよ?!」
足をぷらぷらさせながら、カヴァッリ筆頭幹部の孫娘――ロザーリアが澄まして答える。
「アラ、わたしのせいじゃないわ。レディの頼みごとは黙って聞くのがオトコの甲斐性ってものでしょう?」
――あれ、おかしいな。何だかイヴァンが可哀想に思えてきた。
いや、きっと気のせいだ。
ロザーリアはぱっと戒めを解くと――それほどイヴァンがヘコんでいたということだが――アンジェレッタのもとに走り寄って抱きついた。
「おねーさま! お会いしたかったわ!」
いつの間に手なずけていたのか。やはりボンドーネの令嬢は侮れない。
「……はあ……」
イヴァンはソファにぐったりと沈み込む。
「どうしたんだ、イヴァン。カヴァッリ爺さんにまたシマを取り上げられたのか?」
いつもならファックシットと噛み付いてくるが――剣呑な双眸はどこかやつれている。
「……バーカ、ちげえよ。表向きは平和になったけどよ、いつ何時襲撃があるかわかんねーだろ。幹部の家族なんて格好のマトじゃねえか。あのジジイ、もうしばらく面倒みておれ、とかぬかしやがった」
「そんなに嫌なら……ロザーリアは、うちで預かるが……?」
「ば――ッか、ジュリオ、てめー、ンなこと誰も言ってねえだろうが!?」
「じゃあウチにするか? アリーチェも姉さんができて喜ぶだろうし」
「チッ……好き勝手ほざきやがって」
こちらとは対照的に、セバスチャンから棒つきキャンディーをもらってきゃっきゃと喜ぶロザーリア嬢。
「実際問題、どうなんだ。GDの奴らは――まだマークを外してないのか?」
セバスチャンのやつ、次から次へと花だのチョコレートだの出している。そのうち鳩でも出すつもりか?
「あれだけボッコボコにされても現状の理解できねえノータリン野郎がいるんじゃねえの? それにしちゃぁ――狙いは悪くねえ。起死回生のベット、九回裏ツーアウト満塁のホームラン狙いってやつ」
「そいつぁ大したメイクドラマだ」
ルキーノが皮肉げに口元を歪める。
「……お前も、狙われているんじゃないのか?」
ナイフの刃のように、ジュリオの言が一同に突き刺さる。
「俺が? なんでだよ」
心底不服そうに口を尖らせるイヴァン。
「筆頭が大事な孫娘のお守を頼んでいるのは、お前を外に出したくないという意図もある――のかな。お前はうるさいし目立つから」
ルキーノがジュリオの言を次いだ。暗殺者はむ、とうなずく。
「ハッ――ンだよ、それ。俺はお上品なクソ紳士が相手じゃねーんだぞ。部下どもに示しがつかな」
「だからそれだろう。GDの狙いは。チェス盤をひっくり返してみろよ――非イタリア系であるお前の周囲が、GDにとって一番突き崩しやすい」
イヴァンはうんざりした顔で俺を見上げた。
「イタリアーノだろうがイングレーゼだろうが、俺たちゃ所詮アウトローだろ? お天道サンの下マトモに歩けねえのは一緒だろーが」
「コーサ・ノストラは――」
「お前はそれでいいかしらんが、皆がお前と同じ考えってわけじゃない」
反駁しようとしたジュリオを押し留めた。
「わぁってるよ。そんなクソ下らねえ議論がしたくて、CR:5にいるわけじゃねえ」
おい、ロージィとイヴァンが声を張り上げる。
「ガキはもう寝る時間だぞ。――今度脱走しやがったら、俺のヴァルキリーの後ろに繋いでデイバン中引き回すぞコラ」
「ええッ! ホント?! 約束よ、イヴァン!」
「なんでそこで喜ぶんだよ……サ、帰っぞ」
セバスチャンからもらったお菓子一式を両手に抱えて、ロザーリア嬢はおとなしくイヴァンの後についた。
「御機嫌よう、CR:5の皆様。ハヴァナイスドリーム」
わざと下手な英語を残し、エレベータの箱に乗る姫とその下僕を見送って――。
俺は気づかれない程度に溜め息を漏らした。
「それでは、失礼いたします。ドン・オルトラーニ。ドン・グレゴレッティ」
セバスチャンが慇懃に首を垂れ、ボンドーネ姉弟が軽く手を挙げた。
「チャーオ。今度は、幹部就任式でね」
黒服一同を見送ってから、ルキーノがやれやれと肩をすくめた。
「――そうだ、ベルナルド」
その双眸が鋭い光を放つ。
「お前の弁護士――ロレンツォ・ガエターノ、だったか。そいつを借りてもいいか? 俺のお得意様がちっとばかしおイタをしたらしくてな。なるべく穏便に、波風立てずに、丸く収めたいらしい」
毒を含んだいい様に、少しばかり同情した。
「まったくお前には頭が下がるよ。ロレンツォには俺から話をしておく。なに――あいつもいっぱしの悪徳弁護士だ。任せておけ」
判決をひっくり返すことに無常の喜びを感じる駄目人間だ。
ルキーノはしたり顔で告げた。
「持つべき友は、医者と弁護士と掃除屋だな。――それじゃあ俺は、勝訴かかげてラインダンスしてる部下を迎えに行くとするかな」
女百人は卒倒させられるほどの殺傷力をもつウィンクを残すと、デイバンの伊達男は俺に背を向けた。
「……もう一波乱、あるかな」
何気なく声をかけると、ルキーノは振り返らずに答えた。
「望むところだ。今度こそ、完膚なきまでブチのめす」
「ふふ……カッコイイぜ、ドン・グレゴレッティ」
「からかうなよ、ドン・オルトラーニ。――また連絡する」
「ああ。よろしく」
大きな背中を見送って。
俺は、ホテル最上階にある指令本部に向かった。