NO.4/Angeletta de Bondone
「何、を――」
醜悪な顔だ、と思っていた。
「何をしておるのだ、アンジェレッタ? そこは――その席は、ボンドーネ当主以外座ることあたわざる」
存在そのものが醜悪なのだ。
「知っているわ、お祖父様」
開いた口を塞げぬまま、醜悪な老人は私を見返す。
穢らわしい売女め、とその口が動いたのが判る。
――それは。
この男が母様を罵ってきた言葉。
マホガニーの机の上で組んだ手に顎を乗せる。自分を射抜く視線にどんな亡霊を重ねたものか――老人は双眸に暗い憎悪の火を燃え上がらせた。
「貴様もピエトロも……何故、わしの言うことが聞けぬ……? ボンドーネ家当主は、この」
「ええ、そうね、お祖父様。他の兄弟を殺して手に入れた、血塗れの玉座だわ」
老人の目が見開かれる。
――何故、それを。
「知っているわ、お祖父様」
致命的な言葉を。
チェックメイトたる一手を。
非情なまでに残酷に、叩きつける。
「わたしは知っているの――誰が父様と母様を殺したのか」
暗い室内に響いた舌打ち。
続くのは――哄笑。
「――やはり血は争えんな、アンジェレッタ。貴様も正しくボンドーネの人間だ。それは、認めよう」
老人がゆったりとした動きで手を叩く。
「だが、まだまだ小娘。詰めが甘い――」
それを合図にして、重厚な扉が開かれる。
暗闇の中から現れた――。
黒い、少年。
「それは、どうかしら」
両手から滴る鮮血は――まだ温かい。
少年が顔を上げる。
視線が交錯する。
私は。
うなずく。
少年がうなずき返す。
私たちのしたことは、間違っていなかったのだと。
私たちのすることは、オメルタを遵守した結果だと。
今、確信する。
「殺しなさい、ジュリオ。――それがわたしたちの、本当の“敵”」
*
デイバン一のホテルのラウンジを面会場所に指定して来たものだから何事かと訝しんでみれば――。
「ボナセーラ。シニョーレ・オルトラーニ」
「ボナセーラ、シニョリーナ。珍しいね、君から連絡があるとは」
すでに我が物顔でソファを占拠していたのは、黒ずくめの女一人。喪服とはまた違う――やけに意匠に凝ったアルタモーダ。白磁のデコルテを飾る黒いレースと、黒い皮手袋が印象的だった。
「それに、ベルナルドでいいさ。ジュリオも、俺のことはそう呼んでる」
向かいのソファに腰掛けながら、相手を窺う。
「そう」
素っ気無い。
まあ――愛想好くしてもらえるような仲でもない。
「今日はどうしたんだ? 天下のボンドーネ家当主代行がこんなところで油を売っていてもいいのかい?」
「そんなヒマはないわ。一応大事な用件だから、来てもらったの」
膝に置かれている右手が、かちかちと奇妙なリズムを刻んで動かされる。ジュリオと同じく、この女もナイフ使いだと聞く。――どこまで真実かは定かでないが。
「忙しかったの? 迷惑?」
訥々とした口調。
深い色の瞳がこちらを見上げる。
似てはいるが――彼女の方が、より鋭角的であり直截的であり挑発的であろう。
ジュリオの一つ年上の姉。名はアンジェレッタ・ディ・ボンドーネ。ボンドーネ家当主代行――現在実質的にボンドーネファミーリアを取り仕切る辣腕令嬢。役員会以上に敵に回したくない相手だ。
「迷惑だなんて、とんでもない。君にもジュリオにも、とても世話になっている」
ボンドーネ家はトスカニーニ一家時代からの古株だ。代々、CR:5の役員でも十指に入る重鎮だった。アンジェレッタの代になってからは役員を辞したものの、ボス・アレッサンドロに全面協力してくれている。資金面でも兵力面でも助けられっぱなしだ。特に、ジュリオを筆頭にした暗闘部隊はイヴァンやルキーノ率いる表の兵隊より役立つこともある――時と場合によっては。
「世辞はいいわ」
素っ気無い。
アンジェレッタが右手を挙げると、手近のボーイがやって来た。
「何に、するの?」
「カッフェ」
ボーイはかしこまりました、と応じて去って行った。
アンジェレッタが眉根を寄せる。
「よく飲むわね、あんなモノ」
「紅茶党だったかい? それはすまないね」
ジュリオも飲んでいたと思うが。
そう言うと、アンジェレッタは形容しがたい表情を浮かべた。
「ジュリオも、飲んだの?」
驚き――いや。
戸惑っている――のだろうか。
苦笑しつつ答える。
「そりゃあ、まあね。生憎、ティーポットがなくてね」
「……そう」
顎に手を当てて考え込むアンジェレッタ。
程なくしてコーヒーカップが運ばれて来た。
「あの子――」
最初の一口に口をつけた頃、アンジェレッタが呟いた。
「――家族以外の人間と、飲み食い出来るようになったのね」
「あァ」
思わず声が漏れた。
「今まで、出来なかったのか?」
それは大した箱入り息子っぷりだ。意外と簡単に想像できてしまうからおそろしい。
アンジェレッタが大真面目にうなずく。
「わたしが、許さなかったから。食事をするときは、どれだけ訓練した人間でも隙が生まれるでしょ? ソルダートが人前で飲み食いなんて、ありえない」
そういえば――。
アンジェレッタの前には、何も運ばれていなかった。
「君も」
「え?」
問いが口をついて出た。
「君も、ソルダータ、なのか?」
アンジェレッタの表情は変わらない。
口調も、先ほどと同じく恬淡としたものだった。
「昔、ね」
「そうだったのか。ジュリオからは、あまり話を聞いたことがないから――」
「話す必要、ないでしょ?」
それは、そうだろうが。
「わたしもあの子も、ナイフをオモチャにして育ったようなものだから。ボンドーネも、その能力を見込んで養子にしたんでしょうし」
だが――。
「ドン・ボンドーネは――」
――殺された。
表向きは、内部抗争ということになっている。先代の腹心が自首したので、それで丸く収まってしまった。
だが。
「――君が」
実行犯は――ジュリオ。
指揮者は――アンジェレッタ。
先代殺しに関して俺の知る事実が、それだ。
動機や経緯など、面と向かって聞けるわけがない。ジュリオならば黙秘するだろう。
アンジェレッタはワインの銘柄でも確かめるように軽く告げた。
「あなたにとっても、好都合でしょ?」
「それは」
不覚にも、即答できなかった。
たしかに――。
先代ボンドーネ氏は、CR:5に大してお世辞にも協力的とは言えなかった。旧家の誇りだとかトスカニーニ一家の矜持だとか、そういう類の言葉を好きこのんで使うような典型的な“老人”。ボス・アレッサンドロに対しても表向きは恭順を示していたようだが、裏で何を企んでいたかは定かでない。
そんな古い家にどでかい風穴を開けてくれた。
CR:5幹部としては、感謝こそすれ追及する気などさらさらなかった。
「それは、無論だ。シニョリーナ」
暗い炎の宿った双眸を見返す。
時折――ジュリオもこんな目をする。
憎悪とも、憤怒とも、違う――野生の獣のような、それを。
アンジェレッタは直ぐに消失させた。冷徹な当主代行の目を取り戻すと、軽く肩を竦める。
「わたしたちは、所詮共犯。馴れ合うつもりもないけど。でも」
「でも?」
アンジェレッタが微笑む。
少女のような笑みだと、思った。
「ジュリオが認めたのなら、わたしもあなたたちを認めないとね」
「え――?」
「――姉さん!」
問い返す言葉を遮るように、声がかかった。振り向く。
――ジュリオ、か。
「ベル、ナルド……?」
こちらに窺うような視線を向ける“狂犬”に、軽く手を振ってみせる。尻尾を振りたてるようにしてこちらに近付いて来た。相変わらず足音一つしない。
「何か……話……?」
おずおずと姉の隣に座る長身。仲良く頬にキスしあう姿は、およそ血なまぐさい現場とは無縁の、ごく普通の姉弟に見える。
こうして並ばせてみると――やはり、似ている。
顔立ち云々というより、纏う空気が似ている。
暗殺者の空気――というやつか。
「ジュリオのことよ」
「……俺?」
ああ――そうか。
漸く得心がいった。
「ジュリオの、幹部昇進の件だな」
アンジェレッタがうなずく。
ジュリオが目を見開いた。
「え――でも……俺、は」
言葉と共にうな垂れる様は、颯爽とした戦闘姿とはあまりにもかけ離れている。
「俺は……戦闘員、だし……」
縋るような目で隣の姉を見、俺に視線を移した。
「そう。あなたは、戦闘員。命令を受け、それを完璧に実行する。それが、戦闘員の本分。幹部には、なるべきでない――」
姉の言に、ジュリオが更に沈み込む。
アンジェレッタは正論だ。
だが、
「だけど」
アンジェレッタの左手が、ジュリオの右手に重なった。
「コーサ・ノストラは、そうじゃない――と、思う」
「……姉さん」
ジュリオが困惑して俺を見る。
何を言おうとしてるのか――。
何となく想像がついて、俺は自然に笑みを浮かべた。
「シニョーレ、わたしは、ジュリオの幹部昇進に反対するつもりでここに来た。でも、わかったわ。反対する理由が、なくなった」
アンジェレッタが顔を上げる。
ジュリオを見返してから――。
俺を、真正面に見据えた。
「ジュリオを、よろしく頼みます」